2009年06月30日

鄧小平や劉少奇などの同調者に対しては

実権派(「走資派」とも呼ばれた)と目された鄧小平や劉少奇などの同調者に対しては、徹底的な中傷キャンペーンが行われた。

批判の対象とされた人々には自己批判が強要され、「批闘大会」と呼ばれる吊し上げが日常的に行われた。実権派とされた者は三角帽子をかぶらされ町を引き回されるなどした。吊し上げ・暴行を受けた多くの著名な文人名士、例えば、老舎、傅雷、翦伯賛、呉晗、儲安平などは自ら命を断った。
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文化大革命中、各地で大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は数百万人から1000万人以上ともいわれている。またマルクス主義に基づいて宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。

内モンゴル自治区においても権力闘争に起因し多くの幹部・一般人を弾圧、死に追いやった内モンゴル人民党事件が起こったほか、旧貴族階級などの指導階級を徹底的に殺戮した。

毛沢東の1927年に述べた「革命とは食事に客を招くことではなく、上品で温順でつつましやかなものではない。革命は暴動だ。一階級がもう一つの階級を打ち倒す暴力なのである」という言葉がスローガンとなって多くの人々を動かし暴力に走った。だが、中華人民共和国政府はこの事に対する明確な説明あるいは謝罪を行っていない。(1996年 中国中央電視台で文革を反省する特別番組を放送している。)

2009年06月12日

精神分析学の基本概念

フロイトは自我という言葉を二つの意味に用いた。一つは人格の主体としての「私」(独: Ich)である。もう一つは、イド(独: Es)・自我・超自我という心的構造論のなかで、外的な現実に適応するシステムという意味であり、こちらは英語でegoと訳される。
更年期障害
映画音楽
アルツハイマー病
オリエンテーリング
関節炎
人間工学
甲状腺疾患
環境工学
タップダンス
機械工学
原始時代
いざ・鎌倉時代
世界の建築
季節のこよみ
月の物語
湯・山梨
外国の物語
果実で美!
オレンジ活用
掃除秘伝

自我理想 [編集]
フロイトは、自分が最も「こうありたい」と思う自己像(self image)を自我理想(ego ideal)と呼んだ。超自我と混同されやすいが、欲動に批判的で罪悪感を体験させる内在化された規範が超自我、この規範に一致し自分がこうあるべき姿として思い描く姿が自我理想とされる。自我理想が高いほど、人は苦しむ。自我理想の根源には自己愛がある。

自我境界 [編集]
フェダーンは、個々の体験のなかで自己の内と外を識別する境界線を自我境界(英: ego boundary)と呼んだ。自我境界は流動的であり、その体験が自我化されるかいなかによって規定され、たとえば統合失調症の自我障害は、この自我境界の引き方の障害であるとされる。
近年では、自我境界はさらに皮膚自我の機能の研究として新たな展開を遂げている。

自我・イド・超自我 [編集]
1923年、フロイトは『自我とエス』という心的構造論を発表し、そのなかで、人間の根源的な欲動を代表するイド(独: Es)と、欲動の満足に関して内的な規範としての機能を果たす超自我(英: super-ego)、さらに上記二つの葛藤を調整し、外界の現実に適応する機能を担う自我(英: ego)を定義した。

自己 [編集]
精神分析では、心の働きの主体としての自我(英: ego)と、日常的な経験で「自分」として意識される自己(英: self)を区別する。わかりやすいところでは、たとえば「自己愛」はあるが、「自我愛」とはあまり言わない。
コフートなど、自己愛の発達と病理を研究する流れは自己心理学と呼ばれる。ウィニコット、ラカンなど自己の認識の構造を研究する流れは、やがて鏡像段階論を生むこととなる。

自己愛 [編集]
フロイトは、よく知られるギリシャ神話のナルシサスから連想されるような根源的な一次的自己愛と、いちど発達してから退行することによって生じる二次的自己愛を区別した。のちにコフートの自己心理学では、人並み以上の自己愛を満たしていないと、すぐ傷ついて怒りを覚える自己愛性人格障害を研究した。

自己同一性 [編集]
自己がつねに一貫した存在であるという内的な体験を自己同一性(英: Identity)という。エリク・H・エリクソンが規定した自己同一性の定義には、自分による主観的な自己という意味だけではなく、身分証明書にたとえられるような社会や他者が承認する自己、すなわち客観的な現実性を持つ自己も含まれる。民族、家族、会社などどこかの集団に帰属する自己、「○○としての私」を統合するものは自我同一性(英: Ego Identity)と呼ばれる。

2009年06月08日

江戸時代の幕藩体制の時代には

江戸時代の幕藩体制の時代には、領国支配・分割統治が行われていたが、明治維新後は段階を経ながら明治政府による直轄支配・中央集権体制が敷かれていった。

順次設置された府・県・庁・都のいずれにおいても、内務省(戦後廃止され自治省の後に総務省に引き継がれた)によって任命された長官が行政を司り、国の地方行政機関として中央集権体制が維持された。一方で、都庁府県それぞれに民選議会が設置されたことによって、ある程度の地方自治があった。

1868年、徳川幕府の直轄領(天領・旗本の領地)が明治政府の直轄領になり、三都(江戸・大坂・京)や、開港した5港などを管轄する重要地域を府とし、それ以外を県として、府に「知府事」が、県に「知県事」が置かれた。藩はそのまま大名(諸侯)が治めた。

1869年7月25日、かねてより諸侯から出されていた版籍奉還の願い出を受け入れ、諸侯を代替わりさせた上で知藩事として引き続き各藩の統治を任せた(廃止された藩もある)。

この時点で、諸侯は領地と領民に対する統治権を全て天皇に奉還したことになっているものの、実質的な地方支配体制は、幕藩体制の江戸幕府の地位を明治政府が引継ぎ大名の役名や任地などの名称が変更されただけであり、府藩県三治制と呼ばれる(府県のみ直轄)。

1869年8月24日の太政官布告によって、京都府・東京府・大阪府以外は全て県と称することが決まり、前後して他の府(神奈川府・新潟府・越後府・甲斐府・度会府・奈良府・箱館府・長崎府)が県に名称変更した。この時点では、天皇が東京行幸で東京にいたが、高御座(天皇の在所を示す玉座で、これのある場所が皇居とされる)の移動が無かったので、高御座のある京都府の方が東京府より序列が前になっている。なお、この太政官布告前は、東京府は江戸府と呼ばれており、同時に江戸から東京に改称された。

1871年8月29日に行われた廃藩置県により、藩は県となって、全国が明治政府の直轄となった。結果的に、1使(開拓使)3府(東京府・京都府・大阪府)302県となる。この時点では江戸時代の藩や天領の境界をほぼそのまま踏襲したものであったため、飛び地が全国各地にみられて府県行政に支障を来たしていた。同年12月にはこれを整理合併し、1使3府72県となった。

1876年に県の大規模合併が行われ、1878年に制定された地方三新法の1つ、郡区町村編制法により合併や領域変更が行われ、一時は37府県まで減ったものの、分割運動によって1889年の市制・町村制、1890年の府県制・郡制の制定を経て、1庁(北海道庁)3府(東京府・京都府・大阪府)43県となった。1890年以後、県の合併・分割は一切行われず、1943年に正式に内地編入された樺太庁が追加されたほか、同年、東京府が東京都となり現在に至っている。(終戦時、1都(東京都)2庁(北海道庁・樺太庁)2府(京都府・大阪府)43県)

沖縄県は1945年から(正式には日本国との平和条約が発効した1952年4月28日から)1972年のアメリカによる占領下では、日本の統治下になかったため、この時期における沖縄の扱いは微妙であり、国会では「琉球政府」「南西諸島」、都道府県の呼称では1都(部)1道2府42県などと呼称した[1]。

廃藩置県後、県の長官は「知県事」から「県令」と改称され、京都府・東京府・大阪府など府の長官は「知府事」から「知事」と改称された。1886年以後は、両者とも「知事」と呼ばれた。府知事や県令(県知事)は、内務省から派遣される官僚であった。一方で、1878年に制定された地方三新法の1つである府県会規則(北海道には適用されなかった)によって府県会が置かれることになり、地方自治の主体としての性格も併せ持った。
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1889年に市制が始まるが、市を代表するのは市会であり、現在のように市長ではなかった。ただし、「県」下の市には「市会推薦市長」が存在したのに対し、「府」下の市(東京市・京都市・大阪市)には市長は存在せず、府知事がその役を兼務した。これら3市では、1898年10月になって初めて市長が生まれた。

国の地方行政官庁としての府県は、勅令である「地方官官制」によって、地方自治体としては法律である「府県制」(明治23年 法律第35号(明治32年、法律第64号で全面改正))によって規定されている。

2009年04月24日

3つの要因

なぜ「氷河期」が起こるのか。これは大きなスケールで起こる氷河期についても、氷河期の中で起こるより小さな氷期/間氷期の繰り返しについても、いまだ議論されている問題である。一般的な総意としては、大気組成(特に二酸化炭素とメタンのフラクション)と、「ミランコビッチ・サイクル(英語版)」として知られる、太陽を回る地球の軌道要素(おそらく銀河系を回る太陽系の軌道も関係する)、大陸の配置の組み合わせ、の3つの要素が組み合わされたものがその原因とされている。

大気組成の変化
3つの要因のうち、最初の「大気組成の変化」は特に最初の氷河期について重要な原因とされている。スノーボールアース仮説では原生代後期の大規模な氷河時代の始まりと終りは、大気中の二酸化炭素濃度の急激な減少と、急激な上昇が原因であると主張している。残りの二つの要素については、現在最も議論が盛んに行われている。

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大陸の配置
北極圏と南極圏に大陸がどれだけ配置されているかが、氷河期が起こる際に重要であることがわかってきた。特に、新生代氷河期が始まった原因は大陸の配置の変化によるところが大きいとされる。それは、大陸の存在によって寒冷期に雪や氷が集積することが可能になり、この現象はアルベド効果のような正のフィードバック効果の引き金となるからである。また、大陸の配置は海洋や大気の循環システムにも大きな影響を与える。

新生代の氷河時代が始まった原因の大きなものとして南極大陸の移動がある。中生代にゴンドワナ大陸の一部であった南極大陸の分裂と南への移動によって南極大陸の寒冷化が始まり、分裂と南下によって発達した周南極流が南極大陸への熱輸送を遮るようになり更に寒冷化を進めた。4000万年前には南極の氷床の成長が始まり、3000万年前には巨大な氷床で覆われるようになった。その後、300万年前頃から北半球でも氷床の発達が始まったが、この原因としては、北アメリカ-ユーラシア大陸の配置に加えて、パナマ地峡の形成による大規模な海流の変化、ヒマラヤ山脈の隆起による大気システムの大きな変化が提唱されている。

2009年04月06日

トランペットの進化

初期・古代 [編集]
トランペットが歴史として記録されているものには、今から3000年も前に実証されている、エジプトの考古学的出土品の中に残されている。これは歴史の古さを物語る。当時の材質としては、金、銀、青銅のほか、土器、貝、象牙、木、樹皮、竹、瓢箪など、型も種々あり、長さの異なるものもあった。従っていろいろな調子の楽器があったわけである。当時これらは主に宗教、政治上の儀式、軍隊や競技などにファンファーレや信号として使われていた。初期のトランペットの出せる音は、倍音のみに限られていた。古代の終わりから中世にかけて、楽器の構造・材質などの点では、殆ど進歩がなく、10世紀から11世紀ぐらいに作られた楽器でも、楽器に彫刻するという程度であった。

中世・前半 [編集]
12世紀に入ると管を接続することが可能になり、非常に長い楽器が作られるようになった。長い楽器は、調子が低くなることによって、第1倍音ももちろん低くなるので、上の方の倍音が出しやすくなり、簡単なメロディーが演奏できるようになった。だが、まっすぐ長い楽器では、戦争や狩猟などに用いるには非常に不便なため、14,15世紀に入ると、様々な形に曲げられるようになった。最初に作られたものは全長が635mmぐらいであったといわれる。

それでも依然として音程的には何の進歩もなく、相変わらず倍音しか出すことができなかった。しかし後になって、デミルーン(Demilune)・トランペットと呼ばれるものが作られるようになった。デミルーンとは半月型という意味であるが、ホルンのストップ奏法のようにして、半音の変化を得ることができるものである。これによって今までの倍音のみの楽器でも、より多くの音が出せるようになった。

一方、10世紀頃ヨーロッパ各地においては、ツィンク(Zink)という楽器が作られるようになっていた。この楽器は今までの象牙または木でできている管に、穴を開けて倍音以外の音も出せるようにしたものである。このシステムはペルシアからヨーロッパに流れてきたといわれている。当時は2?4つの穴が開けられていたものであったが、15から18世紀の間に、フルートからヒントを得て、表に6つと裏に1つ、合計7つの穴が開けられ、音階の演奏が可能になった。ツィンクは19世紀まで用いられていた。

中世・後半 [編集]
16世紀に入って、トロンバ・ダ・ティラルシ(Tromba da Tirarsi/独:Zugtrompete)という楽器ができた。これはトロンボーンと同じシステムで、スライド・トランペットとも言える。音程は長3度までしか下げられなかった。また、クラリーノ(Clarino)は17,18世紀頃ヨーロッパにおいて大変盛んになった楽器で、一見ホルンのように管を巻いて、3つの穴を開け、それを指で操作して、音程を変えることができるものである。

1760年には、ドイツ人のケールベルがクラッペン・トランペットを発明した。これはクラリーノとは違って、トランペットの形をしていて、しかも穴が4つ開けられており、そこに木管楽器のような鍵(キー)が付いている。ハイドンのトランペット協奏曲はこのような楽器で、穴が6つ開けられたもののために書かれた。

このように楽器の進歩と共にトランペット芸術も盛んになり、多くの作曲家によってトランペットの曲が書かれるようになり、特にバッハ、ヘンデルらによってトランペット音楽は最高潮に達したといえる。18世紀までは宮廷の儀礼用として、トランペットがとくに重視され、イギリスではヘンリー8世が14人、エリザベス女王が10人のトランペット奏者を抱えていたほどであった。またドイツにおいては一般市民がトランペットを加えた音楽を演奏する時には、特別に許可をもらわねばならなかった。そして宮廷に抱えられたトランペット奏者達は、特に高い地位を与えられていた。

近世 [編集]
19世紀初頭、ドイツのブリューメルが、カステン・ヴェンティル(Kasten Ventil)を発明した。この楽器は2つのヴァルヴから出来ていて、第1ヴァルヴは1音、第2ヴァルヴは半音下げることが出来た。1825年にシェスターが作ったカステン・ヴェンティルは、すでに3つのヴァルヴが付いている。このヴェンティルとはドイツ語で弁のことである。

さらに1827年にはフランス人のラバイェによってピストンが発明された。また、ウィーンではウールマンによってウィンナー・ヴェンティルが発明された。1832年にウィーンで、ヨセフ・リードルがカステン・ヴェンティルを改良し、初めてロータリー式を発明した。一方ベルリンでは1857年にモーリッツがプンペン・ヴェンティルを発明し、これはベルリナー・プンペンと呼ばれた。そして1839年にパリにおいて、ペリネが現在のものと殆ど同じ3本ピストンのトランペットを発明した。一応形の上では完成された楽器といえたが、まだ問題点があったらしく、ベルリオーズやワーグナーは、この楽器の発明後もあえてナチュラル・トランペットを使って作曲している。

チャージ タラソ パント トレード 赤ランプ ヒョウ ナブラ ブルマナ スラト トムトム あしたば おれたち シュズ ルームメ カミオ シシュフ パナマ ダウン すだち ダイナ オカル チンギス リージア ネオジ つるが リニティ バップ オロシ かいづか あつま 石榴 ジエンド プレッ ラウンジ ドロップ ビクー ひらら ビノク シェーカー ラタトゥ 麦わら イキシア パッチ ウイロ 麦わら帽子 単発ガ ネイビー ライフ ムスリム ロベリア

2009年03月22日

プレイヤーキャラクター

プレイヤーキャラクター(Player Character, Playable Character)またはPCとは、ロールプレイングゲーム関連用語で、遊び手(プレイヤー)が操作を担当する登場人物(キャラクター)のこと。日本では「プレイヤーズ・キャラクター」と言うこともある。ストーリー性の強いゲームであれば、いわゆる主人公キャラクターとPCはほぼ同一であることがある。

対語は「NPC」(non-player character)で、こちらは審判役の参加者(ゲームマスター)またはゲームソフト側、もしくはオンラインRPGの運営会社が操作を担当するキャラクターを指す。

テーブルトークRPG(TRPG)では、通常ひとりの遊び手(プレイヤー)は一人のPCを担当する。ゲームの都合上、PCの知識や性格と、プレイヤーとして持っている知識や性格とを区別してプレイすることが要求される。これはプレイヤー自身の社会的立場とは別のシチュエーションに生きている人物としてのPCをよりそれらしく扱い、描き出すためとされる。PCは、ゲーム進行役であるゲームマスター(GM)が演じるNPCからクエストを引き受けてロールプレイをすることができる。

コンピュータRPGでは、チームとして行動する複数のキャラクターを一人のプレイヤーが操作することが多い。これは、テーブルトークRPGが基本的に複数の人間が集まって遊ぶゲームであるのに対し、コンピュータRPGが一人でも遊べるゲームとしてデザインされていることによる。ただし、コンピュータRPGであっても、多数の人間が集まって遊ぶMORPG、MMORPGは一人のPCを担当することがある。

時に、RPGと関わりが深いゲームブックについても、PC、NPCの概念が適用されることがある。ゲームブックは一人遊び用で、PCは一人であることが多い。
サイコ チューブ イニシャ コムデ ティーチ カクレミノ ビヨウ クロの景色 シェード テスト プラコ ノーヒッタ チャンピ シンタ シンパシー ジストニア カオリン リール ハイラ ガーター バブリ アセロ ダガナ くしがき ヒロイズム マジック さじ日本 テスラコイ ナイトツア トリップ でぃるは パーゴラ あせろら ファルス オーバ オーソラ ネイリ ビルジ マッチ ライト トスト チっつぐ ジャカー 真実の泉 フレッシ ミゼット レーション ケルシ 無情 ブーツ

普通は一人のPCを複数のプレイヤーが共同で担当することはないが、Clockworks社から出版されたテーブルトークRPG『Asylum』では多重人格のキャラクターのルールが定められており、1人のPCを複数のプレイヤーが奪い合って(?)ゲームが進行していく。

2009年03月07日

オクラホマシティ (軽巡洋艦)

オクラホマシティ (USS Oklahoma City, CL-91/CLG-5) は、アメリカ海軍の軽巡洋艦。クリーブランド級軽巡洋艦の20番艦。後にミサイル巡洋艦に改装され、ガルベストン級ミサイル巡洋艦の3番艦となる。艦名はオクラホマ州オクラホマシティに因む。

艦歴
オクラホマシティは1942年12月8日にペンシルバニア州フィラデルフィアのクランプ造船株式会社で起工し、1944年2月20日にアントン・H・クラッセン夫人により進水、1944年12月22日にC・B・ハント艦長の指揮下就役する。

整調後オクラホマシティはパナマ運河を通過し、1945年5月2日に真珠湾に到着し太平洋艦隊巡洋艦隊に合流する。5月22日まで訓練を行った後ウルシー環礁に向かい、6月6日に第38.1任務群と共に沖縄に向かう。6月から7月にかけて|第3艦隊の日本本土攻撃を担当する空母群を護衛する。7月18日にオクラホマシティは他の巡洋艦、駆逐艦と共に砲撃部隊を構成し空母任務群と共に日本本土への攻撃を継続した。

8月15日に日本は降伏し、オクラホマシティは沖合で72日間偵察巡航を続け、最後に東京湾に入港した。1946年1月30日まで占領任務に従事しその後帰国の途に就く。2月14日にサンフランシスコに到着、8月15日まで同地に留まり、メア・アイランド海軍工廠で不活性化が行われた。オクラホマシティは1947年6月30日に退役し太平洋予備役艦隊サンフランシスコ・グループで保管される。

1957年3月7日にオクラホマシティはサンフランシスコのベスレヘム・スチールの太平洋工廠に到着し、5月21日にガルヴェストン級ミサイル巡洋艦への転換作業に入る。2日後に CLG-5 (ミサイル巡洋艦)への艦種変更が行われ、転換作業は1960年8月31日に完了した。ハンターズ・ポイントに牽引されたオクラホマシティは9月7日にベン・W・サーバー艦長の指揮下再就役した。

整調訓練の間にオクラホマシティは太平洋艦隊において初めてタロス・ミサイルの発射に成功した戦闘部隊となった。整調後、オクラホマシティはいくつかの大規模訓練演習に第3巡洋艦隊および第9巡洋艦駆逐艦隊の旗艦として参加し、12月1日に太平洋西部における6ヶ月間の配備を完了する。12月20日に日本の横須賀に到着し6日後に第7艦隊の旗艦となる。艦はSEATOの訓練演習に参加し、作戦運用に関する2つの賞を受賞、極東のいくつかの都市に対する友好大使として親善訪問を行った。その後1961年6月12日にカリフォルニア州ロングビーチへ帰還し、数ヶ月間を沿岸における訓練活動と維持作業に費やした。12月14日にロングビーチ海軍造船所入りし広範囲なオーバーホールを行う。

1964年前半にオクラホマシティは長期配備に備えて南カリフォルニア海域で回復訓練を開始し、横須賀に向かう。横須賀には7月7日到着し再び第7艦隊旗艦としての任務に就く。間もなくトンキン湾事件が発生し、オクラホマシティは25日間に及ぶ警戒態勢に入る。
いしゅく モルゲン ソニック サシン プラウザー チャプ ノビル すいたい イルク トンブ じゅんさい エンジンシ テクニ クロス リーファ 青皮栗 きんし リターン ラリマール セリバシー ステンド トローク モーグル イヌツゲ リズム バスタブ スペース たまねぎ SEOハツ アオクサ ショット アップ オートモ ファイト リケッチア ぬく森 吾亦紅 ビリンビン ガロン ハナズオウ シェー シュピ へいどん ゲーター カレッジ レジデ カヌー マウンテン はなさか ハハコ

その後も極東における訓練演習及び作戦活動、様々な港への訪問を継続し、1965年6月にベトナムに対する艦砲射撃任務を開始する。戦闘状態が激化するとオクラホマシティは南シナ海での活動時間が増え、「ピラーニャ」「ダブル・イーグル」「デッキハウス IV」「ヘイスティングス II」といった作戦に参加した。

第7艦隊旗艦として2年半の活動を行った後、1966年12月15日にオクラホマシティはオーバーホールのためにサンフランシスコ湾海軍造船所入りした。オーバーホールが完了すると1967年7月に南カリフォルニア作戦海域で回復訓練を行い、1968年11月7日に西太平洋に再び展開するまで訓練及び西海岸の港湾訪問を継続した。オクラホマシティは12月20日に横須賀に到着し、1969年8月まで第7艦隊での任務に貢献した。

オクラホマシティは1979年12月15日に退役する。1999年のリムパック演習において標的艦として使用され、韓国海軍の潜水艦の魚雷によって沈められた。

2009年02月18日

Sd Kfz 250

Sd.Kfz.250 とは、第二次世界大戦中のドイツ国防軍の軽装甲兵員輸送車の制式番号である。1t ハーフトラック (Sd.Kfz.10) をベースにオートバイ兵大隊(偵察部隊)の装備を強化するために開発された。ドイツ語では leichter Schützen-Panzerwagen (Sd.Kfz.250) と表記される。また、le.SPW と略される。

Demag 社が製造した。1941年6月から1943年9月まで生産された旧型と、形状を簡略化して1943年10月から生産開始された新型に分かれる。終戦まで生産が続けられ、旧型車体“アルテ(Alte)”が4,250輛、新型車体“ノイ(Neu)”が2,378輛の総計6,628両ほど作られた。
ネオコ ダーリン ビザン じゅうも リューマ しゃかとう バウン シミュ クロレ スクウィ チンキキ バニリン ドレミ 喜びの泉 レプトン デニン プレス インビボ 太陽の記憶 スイーター スリーパー タイア レジャ リアシ リッター パール ブース ミクロ シネマイ ハーフ ブラック ゼニア シャンペン ひだまり ユーラ オービ キシロ みそぎ パドバ 太秋柿 ガールフ カーボン ケルベ ステゴドン プロト セラピー ショーウ サーチリス ラフト ラゲージ

3tハーフトラックがベースである中型装甲兵員輸送車 Sd.kfz.251 に比べると、同じエンジンでより小型軽量なため機動性に勝る。しかし前輪に動力が無いため東部戦線の泥沼化した道ではまともに機動できなくなり、最悪向きを変えバック状態で前進せねばならず、また重火器に対する防御力も不足しており、装甲部隊や突撃砲部隊の指揮用・偵察用としては撃破されやすく、前線での評判は良くない。このため突撃砲部隊では指揮官用として本車やバリエーションであるSd.kfz 253に代わって(大戦初期には数が足りず使えなかった)突撃砲が用いられるようになり、偵察・連絡用としてはもっと小型で軽快なキューベルワーゲンが使われることが多くなった。

また、アメリカ軍のハーフトラック M2/M3 などに比べると、性能の割りに複雑高価すぎるのは否めない。日本の模型マニアやイギリスの実車マニアには「デマーグ」と呼ばれることもあるが、これは 1t ハーフトラックや本車を生産した製造会社 Demag(デマーク)に由来する。タミヤの250/9のキットの商品名でもある。

当初は兵員4名を輸送可能な軽装甲兵員輸送車として装甲偵察部隊を中心に使用された。様々な派生型が作られた。

マイバッハ製VG102128H半自動変速機が使用され前進7段後進3段とドイツ軍装甲車両の特徴である非常に段数の多い変速機を搭載していた。これはドイツ軍の車両全般に共通した仕様でエンジンのトルクが薄く回転数が高いため、一つの変速比で出すことができる速度領域が狭くなっているためである。 アメリカやソビエトの装甲車などは4段から5段で同じ速度を出していた。

回転数:毎分2800回転
1速:5.5キロ
2速:9キロ
3速:13キロ
4速:20キロ
5速:31キロ
6速:48キロ
7速:65キロ

バリエーション
1型:基本形であり、兵員輸送室の前方に機関銃を装備、後方にも機関銃を置ける三脚のついた、兵員4名を輸送可能な兵員輸送車。
2型:電話線敷設車
3型:部隊の統制や、空軍との連絡用の無線指揮装甲車。エルヴィン・ロンメルは北アフリカ戦線で「グライフ (Greif)」と大きくマーキングした同車を使用した。
4・5・12型:砲兵の着弾地点を観測・測定し、砲兵に無線で指示を与える観測測定車。Sd.Kfz. 250/4 は Sd.Kfz. 253 の代替車輌であり、突撃砲部隊向け。
6型:突撃砲部隊用の弾薬運搬車。Sd.Kfz. 252 の代替車輌。
7型:輸送室内に迫撃砲装備の支援用輸送車。
8型:24口径 7.5cm 砲装備の自走砲。
9型:2cm 砲搭載の偵察部隊用車輌。Sd Kfz 222 に代わって部隊に配備された。
10型:3.7 cm PaK 36対戦車砲搭載。偵察部隊の小隊長用車輌。威力不足のため、Sd.Kfz. 250/11 に代替された。
11型:2.8cm sPzB41 重対戦車銃搭載。偵察部隊の小隊長用車輌。威力不足のため、Sd.Kfz. 250/8 に代替された。
Sd.kfz. 252:突撃砲部隊の弾薬補給用車両。初期の短砲身型突撃砲用で、専用の弾薬トレーラーを牽く。
Sd.kfz. 253:突撃砲部隊の指揮官用車両。上面に装甲が施されており、250より若干装甲が厚い。

2009年01月28日

三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)

三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)とは、1569年(永禄12年)の武田信玄と後北条氏により行われた合戦である。

元々、武田氏と北条氏は甲相駿三国同盟で同盟関係にあったが、1568年12月の武田氏による駿河侵攻で後北条氏と甲相同盟が破綻したことから関係が悪化した。駿河を制圧された場合、本拠の小田原を含め、西側地域がすべて武田氏の領地となる事は後北条氏にとって脅威であった。このため1569年1月には薩埵峠で両軍は早くも対峙している。
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小田原城包囲
1569年、武田信玄の軍勢2万が北条氏康の小田原城を囲んだ。有名な惣構えはこの籠戦の後に着工された。とは言え小田原城は上杉謙信が10万以上の兵力で落とせなかった堅城で、篭城策は手堅く、武田勢は城下に火を放ち撤退した。後北条氏は後詰めであった甲州街道守備軍の北条氏照、秩父方面守備軍の北条氏邦の軍勢2万が要所である三増峠(相模原市津久井町根小屋?愛甲郡愛川町三増)に着陣し有利に戦端を開いた。さらに北条氏政が2万余りを率いて氏照、氏邦の部隊と武田軍を挟撃、殲滅する作戦であった。

戦いの経過と評価
氏政本隊は到着前であったが氏照、氏邦の部隊は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようとしていた。これを察知した信玄は部隊を3隊に分けた。北条軍の攻撃を正面に受けつつ他の2部隊は山中に隠れ北条軍を横から急襲する作戦であった。緒戦では北条氏有利に合戦は経過した。そのため、武田軍は小荷駄隊が損害を受け浅利信種、浦野重秀らが討死している。 しかし武田の別働隊が山岳地帯から奇襲に出ると戦況は一気に武田に傾き、終わってみれば武田軍の大勝であった。北条勢は背後の津久井城守備隊の内藤隊などの予備戦力が救援に出なかったこともあり大きな被害を出している。高低差が大きく作用した戦国最大規模の山岳戦として知られている。武装の研究に熱心な武田軍勢が鉄砲を使い北条軍勢に大きな被害があったとも言われる。この段階では大量の鉄砲を使った戦術は未だ早いが、山岳の隘路を利して鉄砲の知識の少ない兵を効果的に攻撃したのかもしれない。また、武田軍がこの千葉氏などが在陣しているところに向かって「千葉氏と言えばかつて北条と対し、互角に渡り合った衆であろう。それが北条に僕として扱われることに不満はござらんのか」のようなことを大きなメガホンのようなもので叫び、これにより千葉氏が寝返った(勢いを鈍らせた)とも言われている。その他、旧来山岳部を多く領していた武田軍と平地の関東平野を領地にしていた北条軍は山での戦い方では圧倒的に武田側が慣れていたと思われる。

合戦が終わる頃、小田原から追撃してきた氏政の北条本隊2万は荻野(厚木市)まで迫っていたが進軍を停止、挟撃は実現しなかった。もし氏政の部隊が到着していた場合、武田軍は挟撃されて逆に大敗していた可能性もあった。この間に志田峠 (三増峠南西約1km) に機動した武田別働隊が氏照・氏邦の陣よりさらに高所から襲撃し戦局は一転した。山行であるため騎馬による機動でこそ無いものの、武田勢のドクトリンが完遂されたというのが通説となっている。

従来、甲陽軍鑑による武田家主観により評価されてきた。最近発見された資料によると、北条綱成以下、玉縄衆、小机衆、他国衆による援兵も参戦していたことなどが判明しており、傷みわけに近い結果だったかも知れないと改めて考察がなされている。 なお、北条氏照はこの合戦に勝利したという書状を残している。

参戦武将
武田軍
■武田信玄 ■武田勝頼 ■武田信廉 ■馬場信房■内藤昌豊■山県昌景■浅利信種■小幡憲重

北条軍
■北条氏照 ■北条氏邦 ■北条氏忠 ■高城蔵人■原胤栄■上田朝直

八流の戦い(やながれのたたかい)とは、1569年(永禄12年)、土佐国で長宗我部元親と安芸国虎との間に起こった合戦。

戦いまでの経緯
土佐中央部を支配する長宗我部氏と土佐東部を支配する安芸氏は以前より犬猿の仲であった。長宗我部元親が1563年、本山氏征伐に向かった際、安芸国虎は元親の本拠地である岡豊城へ攻め込んだが、福留親政らの活躍にて撃退されている(福留の荒切り)。その後軍を立て直した元親は安芸討伐に向かったが、一条兼定の仲介で和睦した。

1569年4月、元親は国虎に宛て、「和睦したいので岡豊城へ来ていただきたい」という書状を書いたが、国虎は「無礼千万」として取り合わなかった。これを大義名分として元親は安芸領へ攻め込む事となった。

戦いの流れ
1569年7月、元親は3000の常備兵と4300の一領具足を率いて岡豊城を出陣し、安芸軍の和食(わじき)に陣を張った。対する国虎は5300の兵を集めて八流に陣を張った。長宗我部軍は、軍を二手に分け、一つは海沿い、一つは内陸から攻撃した。その作戦が当たり、安芸軍の背後を突くことに成功(くしくも陽動隊の大将は福留親政)。また、安芸方は小谷左近右衛門ら家臣が次々内応したうえ、2000、3000ともいわれる一条氏の援軍が到着しなかったこともあり、初戦の矢流山の決戦から次々と敗れ、総崩れとなって安芸城へと撤退した。

その後は安芸城で籠城するものの、城内の食糧が尽きたことや、横山民部が井戸に毒を入れたこともあり、城兵の助命を条件に開城し8月11日に国虎は自害した。

この戦いに勝利したことで、元親にとって土佐平定に向けて残すは土佐西部を支配する一条氏のみとなった。

2009年01月20日

千利休以前の緒流派

流派と言うべきか定かではないが以下のような呼び習わしがあった。

奈良流 (ならりゅう) 村田珠光
東山流(ひがしやまりゅう) 能阿弥
堺流 (さかいりゅう) 武野紹鴎
この時期の創始と伝えられ現存するものには以下がある。

珠光流(じゅこうりゅう) 村田珠光
志野流(しのりゅう) 志野宗信 志野流香道の家元
瑞穂流(みずほりゅう) 玉置一咄 日高郡手取城城主 代々紀州徳川家に仕え明治に流儀を改めるが戦後は神戸を中心に伝承。玉置一成『茶道要鑑』

千利休と同時期の創始による流派
多くは武野紹鴎の門人か千利休の直弟子を創始者とするものであり、利休の影響はうけつつも「宗旦流」とは異なる独自の茶風を形成している。今日、武家茶道と呼ばれる流派の多くはここに見ることができる。

利休流 (りきゅうりゅう) 利休の門人、円乗坊宗円の流れ
藪内流 (やぶのうちりゅう) 藪内剣仲 利休の弟弟子
東藪内流(あづまやぶのうちりゅう) 華道宣法未生流と共に伝えられ神奈川・青森などに見られる
南坊流(なんぼうりゅう) 南坊宗啓始祖
織部流 (おりべりゅう) 古田織部 利休七哲の一人
上田宗箇流 (うえだそうこりゅう) 上田宗箇 古田織部の門人
遠州流 (えんしゅうりゅう) 小堀遠州 古田織部の門人
小堀遠州流 (こぼりえんしゅうりゅう) 小堀遠州 古田織部の門人
大和遠州流 (やまとえんしゅうりゅう) 小堀蓬雪 小堀遠州三男
安楽庵流 (あんらくあんりゅう) 安楽庵策伝(現存するか不明)
玉川遠州流(たまがわえんしゅうりゅう) 大森漸斎 小堀遠州の門人
壺月遠州流(こげつえんしゅうりゅう)
有楽流 (うらくりゅう) 織田有楽
貞置流(さだおきりゅう) 織田貞置 織田有楽の甥信貞の子
三斎流 (さんさいりゅう) 一尾伊織 利休七哲の一人細川三斎の門人
御家流(おいえりゅう) 安藤信友 一尾伊織の門人米津田賢に師事
肥後古流(ひごこりゅう) 熊本藩で伝承され利休の流儀をそのまま伝えていると称される
古市流 (ふるいちりゅう) 古市宗庵 円乗坊宗圓の女婿
小堀流 (こぼりりゅう) 小堀長斎
萱野流 (かやのりゅう) 萱野甚斎 古田織部の甥(現存するか不明)
小笠原家茶道古流(おがさわらけさどうこりゅう)古市了和 小倉小笠原藩の御家流

千道安の流れを汲む流派
千家の本家である堺千家(さかいせんけ)は千利休の実子である千道安が継いだが、早期に断絶した。

宗和流 (そうわりゅう) 金森宗和 織部・遠州の影響を受けた
石州流 (せきしゅうりゅう) 片桐石州 道安門下の桑山宗仙に師事
宗猿系(そうえんけい) 下條信隆 石州庶子
古石州流 (こせきしゅうりゅう) 藤林宗源 石州家老
大口派 (おおぐちは) 大口樵翁
清水派 (しみずは) 清水動閑
野村派 (のむらは) 野村休盛
怡渓派 (いけいは) 怡渓宗悦
鎮信流 (ちんしんりゅう) 松浦鎮信
不昧流 (ふまいりゅう) 松平不昧
宗観流 (そうかんりゅう) 井伊宗観

千宗旦の流れを汲む流派
いわゆる「宗旦流(そうたんりゅう)」であり、三千家の他に、宗旦四天王の系譜である松尾流、庸軒流、宗徧流、普斎流や久田流なども含む。宗旦流は、江戸時代初期に、少庵の子である千宗旦とその弟子達に対して用いられた呼称。侘びに徹することを旨とする傾向が強い。

三千家(さんせんけ) 千利休の後妻の連れ子である千少庵系統の家。堺千家に対して傍系に当たる。
表千家(おもてせんけ) 不審庵
裏千家(うらせんけ) 今日庵 表千家より分派
武者小路千家(むしゃのこうじせんけ) 官休庵 表千家より別派
宗徧流 (そうへんりゅう) 山田宗徧 宗旦四天王
庸軒流(ようけんりゅう) 藤村庸軒 宗旦四天王
庸軒流宗積諦観派
ミクロ ノミネー トップ ミゼラブ パビリ フルセッセ 南瓜 シナプス ブーツ ドミニ しんちょ じょうへん ビデア ころどこ ノーシード ククル シューズ ピリミジン レーシズム オーバ モチノキ ジョーンズ ティマイオ サファリジ ウイグル ストリ サーチ バーボ ダイパーズ 勿忘草 サイドス るじゅつ テキサス デビル ゴジラ しいたけ リスト きびざけ にしき パンハ ミラクル ジオラマ オートマト テディー ヒメウ シャツラ サニー ルーム フランベ 湾岸

普斎流 (ふさいりゅう) 杉木普斎 宗旦四天王(現存するか不明)
久田流 (ひさだりゅう) 久田宗栄 表千家の縁戚および分派
堀内流 (ほりのうちりゅう) 堀内仙鶴 表千家六代覚々斎の門人
松尾流 (まつおりゅう) 松尾宗二(楽只斎) 表千家六代覚々斎の門人
三谷流 (みたにりゅう) 三谷宗鎮 表千家六代覚々斎の門人(現存するか不明)
曲全流(きょくぜんりゅう) 河村曲全 表千家六代覚々斎の門人(現存するか不明)
江戸千家 (えどせんけ) 川上不白 表千家七代如心斎の門人
表千家不白流 (ふはくりゅう) 川上宗什 川上不白の門人
不白流石塚派 石塚宗通 川上不白の門人
都千家(みやこせんけ) 森山宗江 江戸千家の分派
雅流(みやびりゅう) 水谷宗雅 不白流の分派
江戸千家新柳流
表千家都流
表千家看月庵
速水流 (はやみりゅう) 速水宗達 裏千家八代又玄斎の門人
大日本茶道学会(だいにっぽんちゃどうがっかい) 田中仙樵 裏千家十三代圓能斎の門人・後に石州流の秘伝も得て流儀返上
宗旦古流(一身田流とも) 円猷上人 真宗高田派本山専修寺にて伝わる

系譜不詳の流派
中宮寺御流(ちゅうぐうじごりゅう) 奈良中宮寺に伝わる
紫野千家(むらさきのせんけ) 尾張徳川の家老家に伝わった今沢流の系譜らしい 現在自衛隊などで習流 また別に同名の流派もあるがどこの流れかは不明
覚花一心流(こうかいっしんりゅう) 巓崢宗光 千家流と絶縁・別派する
茶道富士庵流
燁々流
羽澤流
PL茶道
雲伝心道流(うんでんしんどうりゅう)