三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)とは、1569年(永禄12年)の武田信玄と後北条氏により行われた合戦である。
元々、武田氏と北条氏は甲相駿三国同盟で同盟関係にあったが、1568年12月の武田氏による駿河侵攻で後北条氏と甲相同盟が破綻したことから関係が悪化した。駿河を制圧された場合、本拠の小田原を含め、西側地域がすべて武田氏の領地となる事は後北条氏にとって脅威であった。このため1569年1月には薩埵峠で両軍は早くも対峙している。
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小田原城包囲
1569年、武田信玄の軍勢2万が北条氏康の小田原城を囲んだ。有名な惣構えはこの籠戦の後に着工された。とは言え小田原城は上杉謙信が10万以上の兵力で落とせなかった堅城で、篭城策は手堅く、武田勢は城下に火を放ち撤退した。後北条氏は後詰めであった甲州街道守備軍の北条氏照、秩父方面守備軍の北条氏邦の軍勢2万が要所である三増峠(相模原市津久井町根小屋?愛甲郡愛川町三増)に着陣し有利に戦端を開いた。さらに北条氏政が2万余りを率いて氏照、氏邦の部隊と武田軍を挟撃、殲滅する作戦であった。
戦いの経過と評価
氏政本隊は到着前であったが氏照、氏邦の部隊は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようとしていた。これを察知した信玄は部隊を3隊に分けた。北条軍の攻撃を正面に受けつつ他の2部隊は山中に隠れ北条軍を横から急襲する作戦であった。緒戦では北条氏有利に合戦は経過した。そのため、武田軍は小荷駄隊が損害を受け浅利信種、浦野重秀らが討死している。 しかし武田の別働隊が山岳地帯から奇襲に出ると戦況は一気に武田に傾き、終わってみれば武田軍の大勝であった。北条勢は背後の津久井城守備隊の内藤隊などの予備戦力が救援に出なかったこともあり大きな被害を出している。高低差が大きく作用した戦国最大規模の山岳戦として知られている。武装の研究に熱心な武田軍勢が鉄砲を使い北条軍勢に大きな被害があったとも言われる。この段階では大量の鉄砲を使った戦術は未だ早いが、山岳の隘路を利して鉄砲の知識の少ない兵を効果的に攻撃したのかもしれない。また、武田軍がこの千葉氏などが在陣しているところに向かって「千葉氏と言えばかつて北条と対し、互角に渡り合った衆であろう。それが北条に僕として扱われることに不満はござらんのか」のようなことを大きなメガホンのようなもので叫び、これにより千葉氏が寝返った(勢いを鈍らせた)とも言われている。その他、旧来山岳部を多く領していた武田軍と平地の関東平野を領地にしていた北条軍は山での戦い方では圧倒的に武田側が慣れていたと思われる。
合戦が終わる頃、小田原から追撃してきた氏政の北条本隊2万は荻野(厚木市)まで迫っていたが進軍を停止、挟撃は実現しなかった。もし氏政の部隊が到着していた場合、武田軍は挟撃されて逆に大敗していた可能性もあった。この間に志田峠 (三増峠南西約1km) に機動した武田別働隊が氏照・氏邦の陣よりさらに高所から襲撃し戦局は一転した。山行であるため騎馬による機動でこそ無いものの、武田勢のドクトリンが完遂されたというのが通説となっている。
従来、甲陽軍鑑による武田家主観により評価されてきた。最近発見された資料によると、北条綱成以下、玉縄衆、小机衆、他国衆による援兵も参戦していたことなどが判明しており、傷みわけに近い結果だったかも知れないと改めて考察がなされている。 なお、北条氏照はこの合戦に勝利したという書状を残している。
参戦武将
武田軍
■武田信玄 ■武田勝頼 ■武田信廉 ■馬場信房■内藤昌豊■山県昌景■浅利信種■小幡憲重
北条軍
■北条氏照 ■北条氏邦 ■北条氏忠 ■高城蔵人■原胤栄■上田朝直
八流の戦い(やながれのたたかい)とは、1569年(永禄12年)、土佐国で長宗我部元親と安芸国虎との間に起こった合戦。
戦いまでの経緯
土佐中央部を支配する長宗我部氏と土佐東部を支配する安芸氏は以前より犬猿の仲であった。長宗我部元親が1563年、本山氏征伐に向かった際、安芸国虎は元親の本拠地である岡豊城へ攻め込んだが、福留親政らの活躍にて撃退されている(福留の荒切り)。その後軍を立て直した元親は安芸討伐に向かったが、一条兼定の仲介で和睦した。
1569年4月、元親は国虎に宛て、「和睦したいので岡豊城へ来ていただきたい」という書状を書いたが、国虎は「無礼千万」として取り合わなかった。これを大義名分として元親は安芸領へ攻め込む事となった。
戦いの流れ
1569年7月、元親は3000の常備兵と4300の一領具足を率いて岡豊城を出陣し、安芸軍の和食(わじき)に陣を張った。対する国虎は5300の兵を集めて八流に陣を張った。長宗我部軍は、軍を二手に分け、一つは海沿い、一つは内陸から攻撃した。その作戦が当たり、安芸軍の背後を突くことに成功(くしくも陽動隊の大将は福留親政)。また、安芸方は小谷左近右衛門ら家臣が次々内応したうえ、2000、3000ともいわれる一条氏の援軍が到着しなかったこともあり、初戦の矢流山の決戦から次々と敗れ、総崩れとなって安芸城へと撤退した。
その後は安芸城で籠城するものの、城内の食糧が尽きたことや、横山民部が井戸に毒を入れたこともあり、城兵の助命を条件に開城し8月11日に国虎は自害した。
この戦いに勝利したことで、元親にとって土佐平定に向けて残すは土佐西部を支配する一条氏のみとなった。